シベリアンブルーサイド 第2部 第1章 4
いつもは何かしら夢を見ると云うのに、昨夜は疲れていたせいか、泥人形のように眠りこけたらしい。全く夢を見たような記憶がない。しかも長年、過酷に使い過ぎたことによる絶え間ない身体の痛みや古傷の疼きも、今朝はほとんど消えていた。
ホテル・ボネーシャの女主人が案内してくれたこの部屋は、安宿にしては、信じられないくらい快適だった。
まず、暖房が完璧だった。この辺りは辺境の都市であって、モスクワのように町中の建物全部が一斉に暖房される「全暖房システム」はない。従って、個別の建物ごとに温水による暖房を行う訳だが、通常、その地が観光都市でもなければ、立派なホテルであっても、温水が十分に行き渡らないために、暖房が時々、途切れる事は当たり前であった。
その点、この部屋は暖か過ぎるくらい暖かい。
あと十二分な広さがあった。建物自体の古さはどうしようもないが、これがモスクワの一流ホテルだったら、インペリアルスィート並みの広さであった。
調度品も古いがどっしりした良い品が使われている。
俺はもう少し眠っていたい気もしたが、午前中にタチアナが訪ねて来ることになっていたので、のろのろと起き上がると、ホテルの女主人に朝食を部屋まで運ぶように命じた。
昨晩、タチアナの事をあれこれ考えてはみたが、結局、会って情報を確かめてみるしかないことに気付いて、シャワーを浴びると早々にベッドに潜り込んだのだった。
それに、昨晩、携帯無線で「凍る月」のレミコフと連絡がついたのも、俺がゆっくり眠れた理由のひとつだった。
全く、レミコフの仕事はいつもながら完璧だった。
俺が今回、一番、恐れていることを、奴は良く理解していた。俺がこのホテルにコルチノイと云う偽名で宿泊していて、その偽名まで知ったうえで、シベリアン・ブルーのタチアナが俺を訪ねて来る。
その状況は、別の意味では、シベリアン・ブルーが俺を単独でまんまと誘き出す事に成功したとも云えた。
シベリアン・ブルーにとっては、このホテルに腕利きのスナイパーを送り込むも良し、付属の戦闘部隊で襲撃するも良し、俺を暗殺するにはもってこいの環境が整っている訳だ。
タチアナをマークしているレミコフもそれを察して、2個小隊でこの寒さの中を、ホテルの周囲を警護して呉れていた。
本当にレミコフは頼りになる男であった。
おはようごさいます(Доброе утро ドーブライェ ウートラ)!ゆっくりお休みになれましたか?コルチノイさん!」
「ああ、とても良く眠れたよ」
「それは良ろしかったです!また何かありましたら、どうぞお声をおかけ下さいませ」
女主人は、深々と頭を下げると部屋を出て行こうとした。
「そうだ!昨夜も云ったとおり、今日、若い女性が私を訪ねて来るかも知れない。その時は、丁重にご案内してくれ!」
俺は、この辺りの物価からすれば法外なくらいの額をチップとして女主人に渡した。
「まあ、こんなに沢山!ええ、ええ、分かっていますとも!決してお邪魔は致しませんよ」
女主人は愛想を崩すと、俺が愛人と逢引きするとでも思ったのだろう。急に、訳知り顔になって声を潜めた。
「よろしく頼む」
俺は朝食を済ますと、すぐにこの部屋に盗聴器が仕掛けられていないか徹底的に調べたが、どこにもそれらしき物は発見出来なかった。
と、その時、携帯無線が鳴った。「凍る月」のレミコフからだった。
「シャロノフ司令!そちらに向かうタチアナを発見しました。タチアナは単独です。白タクで向かっています。車両ナンバーは「CDufa02-9165」です。あと5〜6分でそちらに到着するものと思われます。後続車、尾行車等は、今のところ確認出来ません。」
「そうか、分かった。後は、俺の方から連絡するまで、無線の使用は控えて呉れ」
「了解!」
レミコフからの通信が切れると、直ぐにホテルの玄関側の窓のカーテンを開けることにした。幾ら警護隊が配備されているとは云え、一番、狙撃される機会が多いのは、窓のカーテンを開けた直後だ。俺は用心深く、少しづつ窓のカーテンを開けた。
外は相変わらず寒そうだったが、昨夜の霧は晴れていて、薄日も差していた。
やがて、鈍い銀色のボルボ・セダンが、ホテルの方にすべり込んで来た。
ホテルの玄関に横付けするため、俺が覗いている窓と平行の位置に、タクシーがハンドルを切った。
その後部座席に、真紅のセーターに黒皮のジャケット姿の、妙齢の女性の姿を確かに捉える事が出来た。
タチアナは約束どおり、俺に会いにやって来たのだ。
俺のなかに、むくむくと可虐心が芽生える事を、俺は抑えることが出来なかった。

シベリアンブルーサイド 第2部 第1章 3
「さあ、着いたわよ」
もし、ホテル・ボネーシャと云う看板がなければ、誰もここがホテルだとは気付かないだろう。それほど薄汚れた1軒屋の前でジープは止まった。
今夜のルーレットは、幸いシングルオーとダブルオーの目は出なかったようだ。それに、エカテリーナが云ったとおり、車内のヒーターは極度に利いていて、幌の破れを補って余りあった。
「アレック、あなた、まだタチアナの写真を見てないわよね!」
「何故、写真を見る必要がある?タチアナはもうこのホテルに来ているんだろう?」
「お生憎様!タチアナが来るのは明日の朝よ!あたしは今からモスクワに向かわなければならないから、あなたが明日、自分でタチアナを見つけて接触するの!」
「おいおい」
「アレック、まるで私が騙したとでも云いたそうな顔をしているわね!私は或る女性を呼んであるとは云ったけど、もう来ているとは云ってないわよ」
「普通、呼んであると云えば、既に来ていると思うだろう?」
「それは、言語の意味に関する見解の相違ね。さあ早くタチアナの写真を見て頂戴!」
「やれやれ」
俺は仕方なくダッシュボードの中にあった、数葉の写真を取り上げた。
「カーチャ、タチアナと云う娘は、明日、私の前に全裸でやって来るのか?」
「まさか」
ダッシュボードの中から取り出したタチアナの写真は全て、生まれたままの姿が写っていた。
「タチアナは現役のシベリアンブルーよ!タチアナ・メドルスキー伍長」
「何だと?」
「正真正銘、シベリアンブルーのサンクチュアリ部隊員よ!」
「本当か?」
「だから、とびきりの情報だって云ったでしょう!アレックも知ってのとおり、サンクチュアリ部隊員は、全員が10代の女の子で構成されていて、宿舎にいる時は身の潔白を示すために、全員、全裸で生活をしているわ。だからタチアナも全裸の写真しかないの」
「有り得ない!幾ら10代の兵士だけが所属しているサンクチュアリ部隊でも、あのシベリアンブルーだぞ!敵に寝返るなんて信じられるか!」
「まあね、アレックがそう云うのも無理はないけど、今回は本当なの。「凍る月」のレミコフの情報も元をただせばタチアナからの情報なのよ」
「これは罠に違いない!」
「さあ、どうかしら?罠かどうかはご自分でゆっくり確かめてみることね。シベリアンブルーの現役隊員と、1対1で話せる機会ってめったにないでしょ!それだけでも価値があると思うわ」
「まあ、確かにそうだが・・・」
俺は、タチアナがシベリアンブルーのサンクチュアリ部隊員と聞いて、頭に血が上った。
俺が今、大掛かりな捕獲作戦を展開しているソフィアと同じ、伝説のシベリアンブルーが、俺の元に情報をもたらすなど、とても信じられる事ではなかった。
「タチアナは今、ご両親の病気でお金に困っているの。500万ルーブルで話が付けてあるわ。ちゃんとお金はあなたが払ってね」
「金は全く問題ないが、そんな事より一番問題なのは・・・」
「アレック、幾ら伝説のシベリアンブルーって云ったって、推定だけど100人はいるのよ。確かにシベリアンブルーは一騎当千の工作部隊で、これまでも大きな事件の陰には必ずと云っていいほど、シベリアンブルーが絡んでいるけど、弱兵が1人位いたとしても不思議ではないわ」
「まあいい、俺が直接、確かめてやる!」
「そう、その意気よ!それに500万ルーブルって大金でしょ!シャロノフ少将閣下のご趣味は、女の子の肛門鑑賞だから、罠ではないと云う証を示すためにも、このホテルでじっくり、あなたの肛門を観察してもらいなさいって云ってあるの」
「それはご親切に」
「いいえ、愛するアレックのためだもの!このくらいの事、何でもないわ」
そう云うとエカテリーナは、ジープを発進させようとした。
「カーチャ、ひとつだけ質問をしていいか?」
「どうぞ」
「何故、タチアナの肛門を観察したら、それが罠でないと分かる?」
「あーら、あなたはいつも云ってたじゃない!俺は女の子の肛門の臭いを嗅げば、その子が俺に嘘をついているかどうかが直ぐに分かるって」
「ぐっ」
「まあ、あたしはどう云う臭いの違いで、それを判別しているかまでは分からないけど」
「OK!カーチャ、では、最後の質問だ!」
「どうぞ」
「カーチャも知っているとおり、俺は俺自身の趣味を、絶対に金で買うことはない!それは俺の生涯を賭けたポリシーだ!この点はどう解釈したらいい?今回の肛門観察は、500万ルーブルで買ったと云えなくもないぞ」
「あら、あなたがお金で買ったのは、タチアナの情報だけよ!でも、これまでの経緯からして、あなたはその情報は極めて疑わしいと思うわよね!タチアナもどうしたらあなたに信じてもらえるのかを困っていた。だから、あたしはあなたの特殊能力の事を話したの!シャロノフ卿は、あなたの肛門の臭いを嗅げば、あなたの情報が本当かどうかピタリと分かるとね。そしたらタチアナもすごく納得して、ああ、だから「肛門卿」と皆さんから呼ばれていらっしゃるのね。素敵だわ、そんなエスパーみたいな特殊能力をお持ちだんて!」
「それは本当かね!どうも君から聞くと、本当の話でも嘘っぽく聞こえてしまうのだが」
「失礼ね!要するにタチアナの肛門の臭いを嗅ぐのは、あなたの趣味ではなくて、任務だってこと!あなたのポリシーとは関係ないの!分かったでしょ?」
それだけ云うと、エカテリーナはジープの砂埃を巻き上げて、早々と立ち去ってしまった。
仕方がない。今夜はこの場末のホテルで泊まることにしよう。
しかし、エカテリーナから肛門観察の話まで聞かされているとしたら、普通は怖くて、このホテルまでのこのことやっては来ないだろう。もし来たとしたら、命知らずのシベリアンブルーの事だ。益々、情報は疑わしいと思わざるを得ない。
その時だった。
「何、云ってるのよ、アレック!あたしの言葉が信じれないの?それにタチアナって娘は、そんな半端な娘じゃないわ!来るって云ったら絶対来るわ!それも、とびきりの情報を持って、あなたの前に肛門を突き出しにね」
俺の脳裏の奥で、エカテリーナがそう叫ぶ声がしたような気がして、俺はまたブルッと身震いをした。
シベリアンブルーサイド 第2部 第1章 2
「今回の作戦は、俺が命令するまで一時中止とする。全隊、駐屯地に帰還させてくれ」
俺は副官のレオノヴィチ(Леонович)少佐にそう命じた。
「了解しました!直ちに全隊、帰還させます!ところでシャロノフ司令、この霧の中をどこかへお出掛けですか?」
レオノヴィチは俺とエカテリーナの顔を相互に見ると、いぶかしげな表情になった。
「外は寒いですから、司令専用車をお回しします。エントランスでお待ち下さい」
「そうだな、よろしく頼む」
俺は、作戦会議室の横にある車寄せに向かおうとした。
「いいえ、少佐、それには及びませんわ。司令は私のジープでお送りします。私はその後、直ぐにモスクワに向かわなければならないの」
「モスクワへ?グロムイコ派への工作か?」
「さあ、どうでしょうね?」
エカテリーナは俺の問いかけにいたずらっぽく笑うと、そそくさと司令室を出た。
「少佐、これから私はウファで工作員と接触してくる。ついでにソフィアの情報も探ってくるつもりだ。いや何、君たちでソフィア探索が無理だと云っている訳ではない。君たちは、プロニチェフ次官からの借り物だ。このくらいの捕獲作戦で、長期間拘束する訳にはいかないからね」
「ご配慮、恐れ入ります」
「明後日には戻る予定だ。作戦再開はそれからだな!連絡を入れるから誰かに迎えに来させてくれ!留守中の指揮は君に任せる」
「かしこまりました」
「あと、凍る月から連絡があった場合は、私に報告してくれ給え」
「了解!」
俺はそれだけ言い残すと、エカテリーナがアイドリングしている軍用ジープ、NIVA-600に乗り込んだ。
「おい、カーチャ、幌の前の方が破けているじゃないか!」
「心配しないで(Всё будет хорошо フスョ ブーヂット)!ヒーターは故障していないわ」
敬礼して見送るレオノヴィチ少佐の横を、勢い良くエカテリーナのジープが横切った。
近くに俺の専用送迎車、ヴォルガ2400が見えた。やはりこちらにすべきだった。
戦場ではちょっとした判断ミスが命取りになる。これからは、エカテリーナのペースに嵌らないようにしよう。
ジープが、駐屯所出口の検問所を出る時、軍用犬がこちらに向かって激しく吠え立てた。
「馬鹿犬どもめが」
短い期間とは云え、この駐屯地の最高司令官はこの俺なのだ。 最高司令官に向かって吠えるとは、一体どんな訓練を行っているのだ。
かつて第1次世界大戦下のドイツでは、優秀な軍用犬は軍犬と呼ばれて、軍人と同等の扱いを受けたと云うのに、我がロシアの軍用犬は何と無様なことか!
「ちっ、馬鹿犬どもがうるさいわね!急いでなければ、一頭残らず撃ち殺していたところなのに」
エカテリーナは舌打ちをすると、猛スピードでペシニフの森を抜ける道にジープを向けた。
俺はその時、軍用犬が俺にではなく、エカテリーナに対して吠えていた事を知った。
この女に対してだったら、俺がもし軍用犬だったとしても、激しく吠えただろう。
俺が専用車で出入りする時には、一度たりとも吠えたことがない事を思い出して、軍用犬を疑った自分を恥じた。
やはり我がロシアの軍用犬は優秀だったのだ!
「アレック、そこのダッシュボードに、今から会うタチアナの写真があるから、今のうちに見ておいて」
「カーチャ、霧が深いんだ!もっとスピードを落としてくれ」
「大丈夫!ヘッドライトを点けてるわ!対向車だって、この霧だもの!ヘッドライトを点灯してるって!」
「カーチャ、君が我が「眠らない虎」で、ナンバーワンのドライバーであったことは認めるが、私が心配しているのは、対向車との正面衝突ではなくて前方車との追突の方なんだけどね」
「アレックって本当に心配性ね!こんな田舎道、前方車なんている訳ないでしょ?」
「本当かね?」
もし、全財産をワンスローのルーレットに賭けなければならなくなったとしたら、多くの人が、赤か黒か、奇数か偶数か、少なくとも2分の1に近い確率の目に賭けるであろう。
それは全財産を失いたくないと云う心理が、自動的にリスクをヘッジする目を選ぶからである。
故に、2分の1に近い確率で賭ける手段が封じられているシングルオーとダブルオーに賭ける人は、極端に少なくなる。
誰も賭けない目は、ディーラーがスローするまでの間は、あたかも、全く有り得ない、死んでいる目として、全ての賭け手の意識から消え去っているが、無情にも、確実に19分の1の確率で、シングルオーとダブルオーにボールは転がり込む。
戦争で死ぬと云うこともそれに似ていると思う。誰もこの戦闘で自分が死ぬとは思っていないからだ。皆、シングルオーとダブルオーの目を、故意に無視しているのだ。
もし、自分が戦争で死ぬと思っている奴がいたとすれば、戦場に出る前に精神的にホールドアップしてしまって、まともな戦士にはなれない。
だが、まともな戦士はよく死ぬ。それもまた紛れもない事実である。
兵役検査で、メンタル面で不合格になれば、やれ卑怯者だとか臆病者だとか、果ては非国民だとか、周囲から激しく非難されるが、少なくとも戦闘で死ぬことはない。
まともな戦士として生きていく事と、どちらが幸せなのかは俺には分からない。
俺は、祖父の代から職業軍人だったから、戦場で死ぬ事は全く怖くない。
怖くないと云うより、むしろ戦場で死ぬ事に憧れさえ抱いている。それはエカテリーナも同じであろう。
エカテリーナと俺の決定的な違いは、俺は戦場以外で死ぬ事を極端に恐れているが、エカテリーナは、全くどちらも恐れていないと云う事だろう。
俺は戦場以外では絶対に死にたくない。まして交通事故に会って道端で死ぬなど最低だ。
誰かエカテリーナの暴走を止めてくれ!
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